顔文字禁止のわけ
2011-02-20


私のところでは「顔文字」はご遠慮願っている。
こんなに小さな掘っ立て小屋なのに!(笑)
理由は単純で視覚に障害がある方がいらしたときに「音声変換装置」が混乱するからである。

学生の頃、私は聾唖の先輩と恋をしていた。
ユネスコの実験校で、当時筑波大と並んで日本二大「障害者受け入れ大学」、二十人にひとりはなんらかの障害者だったんじゃないかな。
「五体不満足」の著者は早稲田だったと思うが、私の頃は「大学のバリアフリー」は法で定められたが、障害者を受け入れる「体制」がないところが多かった。
女子校時代の先輩で名門J大に進んだ人が、そこの名物教授W氏(「知的生活…」の爺さんのこっちゃ)が、新聞に「障害者は大学に来るな」というようなコトを書いたと怒って嘆いた。
「だって、エレベーターももスロープも完備なのに、障害のある学生がひとりもいないのよ!」

私の通っていたところはエレベーターもなかったし、偏差値も低かったけれど(国文なのに「兎に角」を「ウサギにツノ」と読むバカモノがいた位である)、どんな長い階段でも、車椅子の学生が立ち往生していると男子学生ふたりで上手く車椅子を担いで登ったし、そんなときは通りすがりの女子が、ふたりの荷物を持ってついて行った。
学生同士の「無言の相補性」が成立していたのである。

しかし、恋愛ともなると、車椅子を担ぐようにはいかない。
私たちは筆談で話し合った、ああ、言葉は擦れて少しづつ心がずれていく。
形のないものに誰が「心」なんて名付けたのだろう、私たちは分かり合いたくて遠ざかっていってしまった。
接吻ひとつの、切ない恋だった。
その人は、別れの印のように、宝石のように美しい「接吻」の作品を描いた。

高校で1浪し1留し、大学で1浪し、卒業に6年かかった苦労人である。
お兄さんは東大生だった、頭がよかった、しかし先生がしゃべりながら黒板の方を向いて何か書くと、読唇術でしか言葉を読み取れない者にはお手上げなんである。
生まれた頃に関東と関西では、今のように手話が統一されていなくて、親御さんが読唇術を慣わせたのである。
手話の出来ない聾唖者は、筆談以外に意志をつたえるすべがない。
私の唇の動きは人とは少し違うらしく、読唇術は通用しなかった。

卒業時、「障害者雇用条例」が成立して、就職したものの、「職場の人たちとコミュニケーションがとれないから、と言う理由で退職し、障害者手当で実家での生活を選び。
ひきこもってしまったその人のその後を私は知らない。
知ることが辛い。

というわけで、顔文字はご遠慮ください。

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