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(2005年の文章ですが、思い入れがあるのでちょっと手を加えて載せてみました。「ピンボール」をご存じない方は村上春樹さんの「1973年のピンボール」をお読み下さい。)
青江三奈が好きだった。
初めて見たのは絶対「紅白歌合戦」だわ、それ以外大人の歌謡番組を見せてもらった 覚えがないから。
髪を金髪に染めて、真っ赤なルージュをひいて、青いスパンコールのタイトなロングドレス着て、なんかくねっとした美しい爬虫類のようなカンジ。ハスキーボイスで、歌っていたのは「恍惚のブルース」だったか「伊勢佐木町ブルース」 だったか、とにかくブルースだった。
大切に持っていたベストCDが引っ越しでどっかいっちゃって、残念無念である。
彼女からは「戦後」の匂いがした。
淡谷のり子こそ「ブルースの女王」なのだろう けれども。
淡谷さんが戦争中どんなに国防婦人会に吊し上げくっても電気パーマもお化粧も止めなかったといっても、でも、戦争に負けて、アメリカに占領されて、オキュパイト・ジャパンを経験して初めて出現したのだ、青江三奈という女の人は。
若いころ、徹夜明けで出版社に原稿を届けて、よくピンボールを打ちに歌舞伎町に行った。
普通1ゲーム3セットで200円のところを、中古のマシンばかりを集めて50円で打たせてくれる、ピンボール台だけの店が、隅っこにあったのだ。
そこはゲーセン専門ビルの1フロアで、それらしい装飾もけばけばしい照明もない、リノリウムの床のガランとした素っ気ない部屋で、ただずらっと並んだマシンに「絶対営業サボってる」か「仕事がないな、こいつ」 としか思えないおじさん達が黙々とフリッパーを叩いたり「ティルト」(台を揺さぶる反則スレスレの荒技・やりすぎるとマシンが止まる)したりしていた。
女の私はティルトは重すぎて出来ないが、フリッパー・キープ&パスが得意で、上手くいくと六千万点台くらい叩き出せた。
ピンボール自体せいぜい1950年代〜70年代始めが盛りの、寿命の短いゲームだった からかもしれないが、それはまるで「砂漠の中のジュークボックス」のように、蜃気楼のように、そこにあった。
空気は乾いていて、真昼の歌舞伎町もまだガランとした街で (昼間から風俗でにぎわい始めるのは、もうすこし後のことである)、ほんの少し前の景気の悪さの匂いを、まるで残飯の残り香のように漂わせていた。
くすんだ青春時代の終わりだった。
新大久保寄りの安〜い台湾料理屋の、そのなかでも一番安い定食を食べて、(懐が暖かいときにはも少し手前のタイ料理屋に行った。 一番安い定食を食べに。)
「さぁて、ひと打ちして帰るか〜」と徹夜明けの赤い目をこすりこすり歩いていた、その時である。
「本日・青江三奈ショウ!」
それは歌舞伎町のどん詰まり、雑居ビルの最上階にあるキャバレーの立て看板。
そういえば子供の頃は紅白の常連だった青江三奈は、いつのまにかテレビで見なくなっていた。
ドサまわりしていたのか。
マジックで書いてある「ショウは3回、夜7時〜」。
貼ってある少し古びたカンジの写真は赤い背景に金髪、白い肌、ルージュ、そして、ああ、やっぱり青いスパンコールの、肩のひらいたドレス。
観たい、聴きたい。
青江三奈の歌を。
十分くらいそこにつっ立っていただろうか。
徹夜明けで7時まで体が保たない。 マクドかどこかで仮眠をとろうか。
でも所持金は? 4千円ちょっとだ。
キャバレーって幾らぐらいするのだろう、少なくとも4千円じゃ無理だ。
今から上がっていって、掃除か何かの手伝いでもさせてもらったら、舞台のすそから 見せてくれないだろうか。
たぶんけんもほろろに断られるだろう。
ボサボサ髪、すっぴんにヨレヨレの服じゃ1日ホステスというわけにもいくまい。
そこまで考えに考えて、あきらめた。
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