夜と霧は消えない(ニュースより)

コメント(全4件)
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とんまるき ― 2012-10-25 02:01
アウシュビッツ。
私が高校生の頃は まだ生々しい忌まわしい感覚が 私にさえ感じられたけど
今 娘たちはどう認識しているのか そんな風に思います。
カトリック校では コルベ神父のお話も聞いているだろうけれど 感じてるのかなあ…

私は 今でも 大量に眼鏡だけが積み上げられた写真を思い出すと 動悸が早くなります。
恐怖ですよね。切り取った部分だけを覚えているんだろうけれど 忘れてはならないと思います。

たくさんの人々の無念を見てしまった方にとって 108歳までの毎日はどんな日々だったんだろうかとも思いました。
抜刀質店 ― 2012-10-25 21:45
とんまるきさん

私が生まれたのは戦後17年。出来事は戦中の、今から70年前、氏が38歳の時です。
『戦争』という言葉の語る事実の重さは、今の日本の人には受けとめにくいかもしれません。
「コルベ神父」は私も学校の授業で知りました。
私が生涯の伴侶として生きるとに決めたドッコイ氏の仕事は
『戦争が終わったばかりの国、内戦が終わったばかりの国、民族・宗教対立が、軍事政権が、ゆるくなった国へ行くこと』
です。現実に、「湾岸戦争」のときも、「イラク戦争開戦」の時も、彼はバクダッドにいました。
『だれかが語り、継いでいかなければ』
という使命は、広島のキノコ雲を見た養母、東京大空襲の悲惨さを体験した両親から渡された「バトン」です。
以前テレビでインタビューを受けた渋谷あたりにたむろする女子高生たちは
「え〜、日本ってアメリカと戦争したんですか〜?で、どっちが勝ったの?」
と語っており、腰がぬける思いをしました。
知らなければ、語り継がなければならないことが、確かに、ありますね。
私は「メガネの山」と「義足の山」の映像に、本当に「おそろしい」思いがしました。
ドブロボルスキ氏にとっても、「生きること」は『語り継ぐこと』だったと思います。
やぎ2 ― 2012-10-26 17:33
ダッハウの収容所に行ったことがあります。こちらの資料館も積み上げられた遺品や「製造されたもの」などがあって、人を「モノ」だと思うことの恐ろしさと、それを疑わない恐ろしさを感じました。
現在の高校の歴史の授業では近代史はあまりやりませんし、もちろん選択授業で歴史をとらない、という方法もあるようです。強制的に歴史を刷り込まれる他の国との違いが、今日のノンポリでノー天気な大学生を製造している気もします。
戦争を知らない子どもたち、というのが一時流行りましたが、ときどきこれでいいのかしらん、と思ったりもします。
その一方で、ソ連に抑留された祖父のことは、親戚の誰も、何も教えてくれません。その記憶は、誰にとっても様々な側面があり、一様に伝えられにくいものであり、だからこそ残された者が積極的に読み取っていく術を身につけなくてはならないのだろうと思います。
やぎ1・抜 ― 2012-10-29 08:43
ダッハウ収容所ですか。
人の皮をランプシェードにしたり、していましたね。
アウシュビッツの所長を務めたルドルフ・ヘスに対する裁判で、減刑を求める親族・友人の嘆願書には「彼は庭でアリをふまないように、ダンスのように歩いていた。」とあり、「アリも殺せぬ人間が、百万単位の人間を虐殺してしまう」ということに恐れを抱きました。
私は高校で世界史選択でしたが、「ネアンデルタール人から始まって、第一次世界大戦のあたりで時間切れでした。近代史は入試に出にくい、というのもあり、「お受験大国ニッポン」では、ないがしろにされがちです。
で、「アメリカと戦争したんですか〜?」のオンナノコが生まれちゃうので、「いっそ歴史を逆に現代史から教えたらどうじゃい!」と思います。
シベリア抑留は、歌手の三波春夫さんが体験していて、晩年永六輔さんのラジオ番組で、「アナタ、なんでそれを大々的に語らないの!?」と(永さんは「男のおばさん」ですから)云われていました。
戦中派の親を持った者の義務として、なるべく積極的に戦争について話を聞くようにしていますが。(で、交換日記で文章にしてもらっているわけですが。いつかまとめて世に出しちゃると思うとります)「語り継ぐ」というのはなかなか難しいことです。でも、やる。
ところでイギリスの皇太子の息子さんたちが、王族貴族のぼんぼん&お嬢ちゃんの仮装パーティーで「ナチ親衛隊」になって、お父さんから「すぐアウシュビッツを見て来なさい!」と怒られていましたね。ヨーロッパの王族からして、こうだ。
いやはやなんとも…

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